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じつはぼくのくぼはつじ

老いを認める日々のブログ

 プライム・ビデオでの「夜な夜な映画会」が続いている。十日前からだから十本、、、いやいや一晩に二本の日があったから十一本見た。凝り性なので、熱が冷めるまでは見るのだろう。仕事が忙しいんだからいい加減にすれば良いものを、厄介な性格ではある。


 デ・ニーロ、アル・パチーノ、ハリソン・フォードと見てきて、さて今宵はなんにするべいか?ブルース・ウィリス、ん?ジェイソン・ステイサムも悪くないなぁ〜〜!?

人は2度死ぬ。


肉体から魂が抜け出る時。


名前が人の口に上らなくなる時。







例によって与太記事、、、^_^





    わたしが弾ける唯一の曲。

    楽器が弾けたら良いなぁと思っていたので、二人の娘にはピアノを習わせた。上の娘が習ってきたこの曲を一緒に歌って弾いて憶えた。

♪さんびきの〜ちゅーすけく〜ん♪

    今でも弾けるけど、歌はさすがに心のなかで歌っている、、、^_^。

    家にピアノがある。 百年くらい前は「家にピアノがある」ことはリッチの証だったと思う。そんなリッチの証が何故赤貧洗うが如き(笑)我が家にあるかと言えば、このピアノは百年前ならぬ二十年前の電子ピアノという安物の擬似ピアノの所為である。このピアノ、KAWAI製と思い込んでいたが確かめてみたらYAMAHA製であった(ま、どっちでも良いけど^_^)。


    はてさてわたしは無論、親愛なる女房もピアノが弾けない。しかるに何故ピアノがこの家にあるか?答えは簡単、今は家を出た娘に買い与えたモノだった、、、。



   久方ぶりに部屋の片隅ホコリまみれのピアノを叩いてみたが、シュワちゃんも(間違い、シュワちゃんはシュワルツネガーだった^_^。)シュバちゃんもベトちゃんの音も聞こえては来なかった(当たり前か〜笑)。

 いいなー、音楽が出来たら!あっ違った。楽器が演奏出来たら!


 今ね「街角ピアノ」MHKのね、、、見ててつくづく思ったんだよね〜、おじさんはギターがちょこっとしか弾けないわけね、んでもって歌は上手い。自分で言うから間違い無し!笑。これでギターとかピアノが弾けたら最高なんだけど、まるで駄目!「世界共通言語」「人に喜んでもらえる」「人と人を結びつける」「人をハッピーにする」。街角ピアノで演奏する人々が口々に言う言葉、、、真実だと思う。今から頑張ろうかなピアノ!


、、、なんてこと考えちゃってる夜中の2時半!




    沢山の恋をした。そんななか「構うものか、恋はエゴイストだ!」という声が聞こえていた。


    レィモン・ラディゲ「肉体の悪魔」は残酷な書だ。








 ここ何日かは、娘の入れてくれたアマゾンプライムで夜な夜な映画ばかり観ている。邦画も面白いものは色々あるのだろうが、若い頃に寅さん以外はまって見たことがないので洋画専門。


 生きた時代のせいか、あるいは淀長さんの影響かは知らないけど洋画が好きだ。若い頃よく観ていたフレンチノワールの作品を探すもアマゾンプライムのプログラムに見あたらず、好きな役者の一人デニーロの出ているものを手当たり次第に観た。どれも面白かった。デニーロの出ている作品を探すうち、パピヨンのタイトルを目にしたのは何日前だろうか?気になっていたので、マックィーンとダスティンホフマンが出ている筈のパピヨンを昨夜観た。おろ?オロオロと慌てたのは、このパピヨンがあのパピヨンと違っていたからなのだけど、原作は同じアンリ・シャリエール。この映画はマックィーンとダスティンホフマンの印象が強すぎて、参ったなーの思いで見ていたものの見終わったら満足のいくもので良い映画だった。僕は批評家や評論家ではないので、どこがどう良かったは書かないので興味がある人は見てください。


 

    久々に二階に上がった。震災で棚から飛び出した本が元の位置に戻っていた。あら、不思議?「本を棚に戻してくださいね」と妻に言われていたのだが、面倒なのでほっといたら自然に元に戻った。よくしたものである……?その本棚から何とは無しに取り出した一冊が、吉行淳之介著「私の文学放浪」角川文庫。ぱらぱらとめくって見る。気になった箇所があると、ページの隅を折る癖があるので、読み返す時は便利が良い


「ふむふむ、なるほど」

    併載されている「文学エッセイ」中の、「私はなぜ書くか」を読み深く肯き忘れていた青年時の熱く拗ねたような気分に暫し浸る。


「お父さ〜ん!何してるの?仕事に行く時間よ」

    階下からの妻の声に促され、わたしは階段を降りる。降りながら徐々に青年時の気分は消えて、降りきった時には文学臭の無い今の自分に戻っていた。少し残念な気もした。


2017.3記

    珍しく沢山の人に読んで貰えた記事だった。







在るように見えて無い「時間」


無いように見えて在る「空間」


言葉が意識を作り


意識が世界を創るなら


言葉が神と言えるかも知れないと、散歩しながら考えた。


家に帰ると妻が、乾いたタオルで


わたしとツブラの小雨に濡れた身体を黙って拭いた。




言葉は神ではないのかも知れないと思った。




12.12の記事




 まんじりともせず朝を迎えたのは初めてのことではなかった。夜の闇が、今の時代よりももっと濃く深い頃の話だ。

 

 鴨居から隣室の光が黄色く洩れているのを眺めている僕がいる。隣で眠る弟の寝息が聞こえる。父の夜仕事はまだ続く。僕は、母の寝息を聞きながら朝を待つ。


 鴨居からの光が天井に揺れて黒い影が動く。光が消え、暗闇が訪れ、襖がそっと開き、父が僕の隣に横たわる。煙草の臭いが空気を揺らし、やがて静けさが訪れる。闇が僕を包み込む。睡魔が襲う。だが眠るわけにはいかない。僕は今日を限りに良い子になることを決めたのだ。良い子になるには、まずオネショをしないことだと考えた。頑張っても治らないオネショ。寝る前に水分を控え、凍えるような寒い夜、廊下の端の便所に何度も行き、出もしない小便をひり出しても止まないオネショ癖がある限り、僕は良い子になれない。眠らない事が唯一残された良い子への道なのだ。この方法をとるのは何度目かのことかも知れないけれど、記憶がはっきりしない。この夜が初めてだったようにも思えるし、もう何度も数えきれないほど試したようにも思える。忌まわしい過去は記憶のメカニズムによって消されてしまうらしい、とくに子供は、、、。重たすぎる現実から逃げる事で、命を未来に繋げて行けるように脳がプログラミングされているという。大袈裟かもしれないが、僕にとって小学5年生まで続いた「オネショ」は重たすぎる現実だった。小さな意志のおよばない、辛く悲しい現実だった。 


 すぐ横にいる父の気配を窺い、息を殺し目をつむる。瞼の裏に色が浮かぶ。赤、青、緑の色が線を形作り文様を描く。瞼にかける力加減で、その姿形が無限に変わることを知ったのはいつのことだろう。様々に姿を変える文様は、目を開けた途端消える。父のいびきが聞こえるが、やがてその音も消えて闇に一人取り残される。



じつはぼくの久保はつじ


 そっと腕に触れてみる。そうして擦る。足を伸ばして動かしてみる。僕は僕を感じている。目の前にかざした手が見えない。左手も右手も顔に触れてみるまでは本当にそこにあるのかが分からず不安な気持ちに襲われ、僕は少しうろたえる。手は確かに在る。ただその手の長さや形が、いつもの僕の手なのかが分からない。うんと伸びてしまったようにも、千切れて宙に浮いているようにも思える。意識だけが巨大化して僕は僕自身との距離を見失い、生き物のような肌触りの闇に恐怖を憶え布団の中にもぐり込む。息を殺して朝を待つ、、、。


  

2013.4の記事「闇」改題


 Eテレでイギリスのテレビ番組「7年ごとの記録」を見ていたら、表題の言葉が聞こえた。63才の男性はその質問にイエスと答えた。わたしはどう考えるのか?数時間過ぎたがまだ考えている。