7才までに人はつくられるか? | じつはぼくのくぼはつじ

じつはぼくのくぼはつじ

老いを認める日々のブログ

 まんじりともせず朝を迎えたのは初めてのことではなかった。夜の闇が、今の時代よりももっと濃く深い頃の話だ。

 

 鴨居から隣室の光が黄色く洩れているのを眺めている僕がいる。隣で眠る弟の寝息が聞こえる。父の夜仕事はまだ続く。僕は、母の寝息を聞きながら朝を待つ。


 鴨居からの光が天井に揺れて黒い影が動く。光が消え、暗闇が訪れ、襖がそっと開き、父が僕の隣に横たわる。煙草の臭いが空気を揺らし、やがて静けさが訪れる。闇が僕を包み込む。睡魔が襲う。だが眠るわけにはいかない。僕は今日を限りに良い子になることを決めたのだ。良い子になるには、まずオネショをしないことだと考えた。頑張っても治らないオネショ。寝る前に水分を控え、凍えるような寒い夜、廊下の端の便所に何度も行き、出もしない小便をひり出しても止まないオネショ癖がある限り、僕は良い子になれない。眠らない事が唯一残された良い子への道なのだ。この方法をとるのは何度目かのことかも知れないけれど、記憶がはっきりしない。この夜が初めてだったようにも思えるし、もう何度も数えきれないほど試したようにも思える。忌まわしい過去は記憶のメカニズムによって消されてしまうらしい、とくに子供は、、、。重たすぎる現実から逃げる事で、命を未来に繋げて行けるように脳がプログラミングされているという。大袈裟かもしれないが、僕にとって小学5年生まで続いた「オネショ」は重たすぎる現実だった。小さな意志のおよばない、辛く悲しい現実だった。 


 すぐ横にいる父の気配を窺い、息を殺し目をつむる。瞼の裏に色が浮かぶ。赤、青、緑の色が線を形作り文様を描く。瞼にかける力加減で、その姿形が無限に変わることを知ったのはいつのことだろう。様々に姿を変える文様は、目を開けた途端消える。父のいびきが聞こえるが、やがてその音も消えて闇に一人取り残される。



じつはぼくの久保はつじ


 そっと腕に触れてみる。そうして擦る。足を伸ばして動かしてみる。僕は僕を感じている。目の前にかざした手が見えない。左手も右手も顔に触れてみるまでは本当にそこにあるのかが分からず不安な気持ちに襲われ、僕は少しうろたえる。手は確かに在る。ただその手の長さや形が、いつもの僕の手なのかが分からない。うんと伸びてしまったようにも、千切れて宙に浮いているようにも思える。意識だけが巨大化して僕は僕自身との距離を見失い、生き物のような肌触りの闇に恐怖を憶え布団の中にもぐり込む。息を殺して朝を待つ、、、。


  

2013.4の記事「闇」改題


 Eテレでイギリスのテレビ番組「7年ごとの記録」を見ていたら、表題の言葉が聞こえた。63才の男性はその質問にイエスと答えた。わたしはどう考えるのか?数時間過ぎたがまだ考えている。